白山1300年にディープな石川

 あらたまってヤマといえば白山とのことを云うのが明治生まれの祖母であり大正生まれの母でした。西の砂丘地の防砂林も身近なヤマでしたが、遥か東に横たわる白山は形容詞のつかない特別な「ヤマ」でした。加賀平野に暮らす者にとってのザ・ヤマである白山は今年2017年が養老元年(西暦717年)の泰澄大師の開山から数えて1300年にあたるそうです。この白山について観光マイスター辻さんから研究会の場で話を聞く機会がありました。白山は修験道の山として開かれ、古くは越前(平泉寺)‣加賀(白山比咩神社)・美濃(長滝神社)の三馬場から入山し、現在の石川県側市ノ瀬からの登山道は越前禅定道の一部とされています。NHK大河ドラマ真田丸に映しだされた真田屋敷床間に掛かる「白山大権現」軸は真田の産土神である山家神社の白山信仰に依るもので、全国3000社を数えるという白山信仰の広まりが分かります。白山比咩神社に祀られる菊理(ククリヒメ)は小松(高麗津)と結びつけて高句麗姫とされることもあり、その信仰は美濃石徹白の御師と呼ばれる人達が冬場に薬草や御札を持って布教活動して全国に白山神社を拡張させたそうです。白山神社は石川県より岐阜県に多く、福井県・新潟県・愛知県にも多くあり、白山山頂の領有には争いのあったことが伝えられています。江戸時代に加賀尾添と越前牛首の住人による白山争乱により白峰は天領とされ、境界住人は能登門前の山是清に移住させられたことが最近になって分かったそうです。その後、加賀藩に仕え石川県庁に務めた森田平次により明治になってから白山頂上は石川県に編入され、平成になると山頂を有する山手の村々は松任・鶴来・美川と合併して日本海に面する「白山市」となっています。一向一揆や廃仏毀釈を経て加賀平野のシラヤマさん信仰は遠い昔に変質しているのでしょうが、折々に仰ぎ見る白山からは時に厳しくヤマの力を与えられ時に優しくヤマの安らぎを与えられています。そして、北陸新幹線開通で首都圏から白山比咩神社に詣でる人は、結界を超えてナマのお神楽に遭うと金沢にはないディープな石川に踏み入れることができるようになりました。

はとバス食いだおれツアー

 正月ラグビーが先だったかプロ野球開幕戦が前だったか、東京に遊びに出たのは久し振りのことです。月曜日の研修を日曜日に前泊の日程を組んで、小春日和の東京都内をはとバスの人気ツアーで巡りました。このコース、朝昼晩の三食がセットになっていることを目玉にしていて、最近のテレビ番組で紹介されてから参加者が多くなったそうで、ちょうど増発便を出していたのでこれに乗せてもらうことができました。車窓から富士山を望みながらの北陸新幹線が東京駅に到着したのは8時30分ころ、すでに金沢駅から乗り込んですぐにコーヒーとサンドウィッチやら何やらで少し腹ごしらえをしてからのスタートです。9時10分発車のツアー増発便はほぼ満員でした。もしかしたら、京都の観光地のように、日本語の通じない人達が大勢いるかも知れないと思っていたところ、乗客は見た目にみんな日本人ばかりでテンションは緩みました。江戸味覚食い倒れツアーとネーミングされたはとバス人気ツアーの最初の訪問地は築地場外市場、ここで握り寿司の朝食です。金沢の回転ずしと比べつつ軽く平らげてから、市場の混雑の中を通って報恩講の案内板の上がった築地本願寺へと一回り、もう一度、食い過ぎないよう気をつけながら市場を抜けました。次は昼食。秋の陽射しを受けながら荒川沿いの高速道路をゆっくり時間をかけて柴又まで移動です。まずは、老舗川魚料亭で穴子丼が準備されていました。ウナギでなくアナゴということで何となくサラッと食べ終え、大判焼をほおばりながら帝釈天から柴又駅あたりを散策しはとバス優待料金で寅さん記念館に入ってみると、懐かしい16ミリフィルムを大小の缶ごと展示してあります。ここを出てからたっぷりと水を湛える江戸川の堤防を歩いて料亭に戻りました。午後は両国、国技館の焼き鳥の話を聞きながら巨大な江戸東京博物館を歩き回ったのはいい腹ごなしです。そして、夕食は、東京スカイツリーを眺めながら着いた浅草の天ぷらでした。雷門から仲見世を歩きながら気になる人形焼きを食べてから、天ぷら屋さんでビールを飲んでいたら日が暮れて浅草寺は閉門しライトアップしていました。

いまさらながらの展示会デビュー

 地元の能美市商工会の合併10周年を記念する展示会・物産展に石川中央労務研究所として出展しました。商工会に加盟する事業者の皆さん数十社が参加される中の1ブースをお借りして、出展にご賛同いただいた研修スタッフの皆さんにご協力いただき、ポスターを掲示しDVDを流しながらチラシを配布するという形になりました。このような展示会に参加するのは初めてのことで、当日はどのような方に来て頂けるのだろうと考えながら、来場数も分らず配布資料をどのくらい準備していいか分らないままにスタートしました。社会保険労務士事務所としての参加ではなく石川中央労務研究所として、複数のスタッフにより幅広い領域から人材育成・福利厚生・事務代行など人的資源の活性化をサポートするというコンセプトを固めて、ヒトづくりと企業風土の醸成を意識して臨みました。何人かが集まって準備を進めるなかで、無料の社員教育診断や助成金診断、採用や配置のための適性診断、各種セミナー研修のスタッフ紹介、パワハラセクハラマタハラ対策、育児休業からの職場復帰支援、選択制確定拠出年金の案内、労働災害の防止と補償、などなど自分たちが皆さんにご紹介できるコンテンツを盛りだくさんに抱えていることに改めて気がつきました。実際の来訪は期待したほど多くなく、特にいわゆる一般客が少なく、出展企業のスタッフが目立つ状態で、50部ほど用意した配布した資料が少し余ってしまいました。展示会ということで営業部門の担当が多かったのですが、企業の人材育成や福利厚生に関わる自分たちの立場からすると、企業内部の方と接する機会を得ることができたと考えればそれなりの評価はできるものと考えています。そして、出展して得ることのできた一番の成果は、出展のための準備のプロセスを経て、自分たちのできること期待されることは目の前に多くあることを確認できたこと、実現の途は自分たちで切り開く必要があることを明確にできたこと、この二つのようです。

知ると不安な情報セキュリティ

 

 士業やコンサルタントなど異業種の人の研究会で、ITコーディネーターの話を聞く機会がありました。普段からメールやFacebook、仕事ではe-Govや電子申請など、私達はITから避けることのできない環境下にいますが、これまで情報セキュリティについてきちんとした話を聞く機会がありませんでした。ITコーディネーターというのは小規模企業のIT活用を支援しIT経営を実現するプロフェッショナルであり、企業の情報資産の保護と情報システムの安心安全な利用を図ることが情報セキュリティの目的だということでした。近年の情報セキュリティの脅威は多く出現し、カード情報の不正利用や標的型攻撃そしてランサムウエアと呼ばれる身代金要求型のものもあって、小規模企業においてもこれに対抗できるよう最低限の対策が必要だということです。まずOSやソフトに関してはバージョンチェッカーなどで更新状況を確かめて最新の状態に維持すること、ウイルス対策に関してはウインドウズだけに頼らず無料でも十分なので確実なソフトを導入すること、そしてパスワードに関しては8ケタ英数記号を交えたものにして6か月に一度は更新するなど適切な管理をすること、いつも言われていることですが手落ちのあるところです。さらに、メールやFAXの誤送信も重要なセキュリティ対策でありクリック前の再確認は大切なことであり、問題発生時に備えてシステムイメージのバックアップを取って回復ドライブを用意しておくことも有効であるということでした。日常の業務に欠かせないITの足許を固める情報セキュリティですが、思わぬところに穴があるような気がして聴くほどに不安が広がり何から手を付けるべきか迷ってしまいます。

 


 

終わりのない草むしり

 やさしい陽射しと心地よい風の吹く時期は虫も少なく、半そで短パンにサンダル履きで草むしりをしていても気持ちが良かったのですが、夏も終わりに近づくとムシムシと気温が上がって凪いでくるとブンブンと蚊が湧いてきて、首にタオルを巻いて長そでシャツにゴム長の装備でも噴き出す汗に虫たちが集まってきます。どこかから風でタネが飛んでくるのか、鳥たちがあちこちから運んでくるのか、毎年、いろんな種類の草が芽を出して自分の植えた花の苗より立派に育つのを見ていると、きれいな花でもつけてくれないかと思うのですが期待どおりにならないのは当然のことです。それどころか、花か実か分らないうちに種子を飛ばして眼にまで入ってきたり、手袋をしていてもその上からチクチクと突き刺さってきたり、ここまで手強く進化してくると除草剤を使って花も草も一度その全部を枯らしてしまうしかないかと考えてしまいます。そのうえ、梅雨明け前から泣き始めたセミの抜け殻があちこちの木の枝にぶら下がり、アメシロの防除が終わった後も庭木を食い荒らすフサフサした毛虫の糞まで増え続けて、自宅の玄関先は植物園と動物園が一緒になってしまったような賑やかさです。これに加えて、砂地の上にある実家では母親が暮らしていたのですが、これまで合い間あいまに草むしりくらいしていた母親が身体の安全も財産の保護も不安な状態となってしまって介護施設のお世話になり、草も生えず落ち葉も散らないつもりのところに庭木に負けないほどの草がスクスクと丈を伸ばしてきました。晴れた日が続くと砂が乾いて草は根から抜けるので、半日ほどで枯草の山ができます。母は丈が小さいうちにむしり取って乾いてから火をつけて燃やしていたようですが、さすがに量が多くなると煙も出て近隣に迷惑になるので、穴を掘って埋めようかコンポストを買ってきて肥料にしようかと思案しています。これに落ち葉を重ねて糠か何か加えればちゃんとした堆肥になって、うまくやれば綺麗な花ぐらい咲かせることができるのではないかと都合のいいことを考えています。ただ、こんなことを考えているうちに雨が降ると花より先に草が一度に伸びてきます。 

梅雨が明けるかよい宵山

 

 いつもなら梅雨が明けるか明けないかの時期、金沢はお盆で雷雨の合間を縫って早めに墓参りを終え、二つ三つ用事を束ねて午後のサンダーバードで京都に向かうと、四条通は祇園祭の宵よい山で賑わっていました。巡行までもう一晩あるのでブラブラと歩くつもりが、金曜日の晩ということで浴衣に団扇の準備も整えた姿も目立つ地下鉄から外に出ると思いのほか人出が多く、狭い小路にも屋台がびっしりと並ぶ中を流れに任せて通り抜けるうちに気持ちも昂りました。まずは、いつもの食堂で卵焼きと野菜炒めと味噌サバで腹ごしらえ。まだ空が明るいうちからビールを飲んで風に撫でられ街を歩くのは久し振りことのように思いながら、車両の通行が止められたばかりの大通りを月鉾から鶏鉾と歩行者も一方通行になって脈絡もない経路で長刀鉾の下に辿り着いた頃には日も暮れ始めて、汗の浮いた身体にもっとビールをプレゼントしたい気持ちを抑え自分の足で歩けるうちに宿に戻ることにしました。

 

 

 朝食はバイキング。何故か外で朝食を摂ると普段よりずっと多くなってしまいます。特に今回は、つまんだパンが甘いアンコたっぷりの蓬パンと甘い生地のクロワッサンという予期せぬ味覚に混乱し、お腹も気持ちも落ち着かないためリセットしてお粥で口直しとなり、二食分を一度に食べてしまったような気分でした。腹ごなしのつもりで市バスの一日パスで河原町に出て、丸太町を新島邸から有栖川邸まで御所にも少し入りながら歩くと烏丸通では一服にちょうどいい時間になったので、マクドでコーヒー飲みながら午後は梅小路機関区の鉄道博物館に行くことにして、直行バスが分からないので一旦は京都駅に向かうことになりました。バスを乗り換えて梅小路に着くと山陰本線二条駅を思い出す木造駅舎が見えてきて、博物館に入る前から嵯峨野の踏切を蒸気機関車が貨物を引いて通っていた頃の雰囲気に引き込まれてしまいました。

梅雨の晴れ間にラグビー観戦

 

 百万石まつりが終わった次の日曜日、梅雨の時季にしては明るい陽射しを受け落ち着いた風が吹き抜ける陸上競技場で、母校のラグビー定期戦を観戦してきました。夏の風に吹かれて汗をとばし緑濃く育った芝生を眺めながらガブガブと飲んで応援するラグビーは、厚着してウイスキーを舐めて見るのとは一味も二味も違う趣でした。ゲームは22対28、数字だけだと両社トライ数は4で並びゴールで差がついたという結果で、横浜にいるラグビーファンの同窓生からは接戦の末の惜しい試合と印象だったようです。ただ、スタンドから見ていた印象ではエリアやスピードから得点以上の差がある感じがしました。モールやラックに持ち込んだりセットプレーになると互角以上とも見える我が母校ですが、密集からオープンに展開するとノックオンが目立ち、何度もインターセプトされたのは相手ディフェンスのプレッシャーが大きかったようです。オリンピックに向けてセブンス候補選手が抜けてベストメンバーを組める時期ではなかったことも一因か、自陣でのインターセプトから一気にゴールポスト下までの独走トライを続けて決められるなどもろさが見え、学生チームを冬の選手権に向けてこれから作り上げていくプロセスにも関心が向きます。チームづくりとしてみると、ワールドカップラグビーを目ざした日本代表チームにも関心が集まります。15年の南アフリカ戦ではゴールキックの画ばかり流されましたが、バックス陣に限らずフォワードやハーフの選手たちがサンウルブズほか各地のチームに散っていて、彼らが代表チームに集結したときどんな役割を果たすのか、世界レベルに近づいた活躍を見るのが楽しみです。

5月の大暴風

 ゴールデンウイークの前から毎日のように風の強い日が続く4月5月でした。マストを立てたまま陸に上げてあった小型艇が倒れたり自宅の物置が傾いたりと、例年のことを想っても並みの風の強さではありませんでした。南からの安定した強い風が長時間に亘り吹き続け、冬の西からの季節風や台風の風とは少し違う被害が発生しました。

 マイクロソフトのウインドウズも5月に大暴れし、無防備に構えていた事務所では一時的に業務が中断してしまいました。ウインドウズが新しく‟10”になり‟7”や‟8”から無償でアップグレードできるということは知っていたのですが、評判のいい‟7”から急いでアップしなくてもこのままできるだけ長く使い続ければいいと考えて、「無償アップグレード」には乗らない方針で対応を固めていました。‟XP”から‟7”に変えたことを思い出しながら、OSを更新した後の各種ソフトの対応に不安が有ったこと、外部の接続機器もすべて対応するのか不明だったこと、画面表示や操作手順などの使い勝手が変わること、実際には日常業務で余計な手間や費用が発生することに対する抵抗感も残っていました。使えるところまで使うつもりでいた‟7”でしたが、週明けに事務所に出てパソコンに電源を投入して席に戻るとアップ作業が始まっていました。余計な操作をしてしまったのかと思い作業を中止しようにも手の着けようがありません。「電源を切らないでください」との表示に、電源を切れば作業は中断するかもしれないと考えて強制Offしても、電源Onにするとすぐに更新作業を再開してしまいます。どうにもできないので、あちこちに電話を入れてみると私だけではない様子が窺えるようになり、マイクロソフトに対応を訊くしかないことが分かりました。しかし、相談窓口はずっと通話中で「混んでいます」のメッセージが繰り返されるだけで、そのうちにアップグレード作業が完了してしまいました。翌日になってようやくアップ後一定期間中なら「回復」作業ができるということが分かり、業務を中断したまま二日かけて何とか元に戻すことができました。その後、暫らく日を置いて別のマシンも順にアップが始まりましたが、二台目からは半日ほどで回復させることができるようになりました。ところが、問題も明確になり、一度アップしたOSの実体は‟10”でありすべてのソフトが対応しているものではなく、OSは無償でもソフトの更新は有償で進めざるを得ない状況に置かれていることが分かりました。稀にみる強風の被害に加えてウインドウズの暴風被害、ゴールデンウイーク後に予期せずして生じた時間の浪費と費用の急増はこの後も尾を引きそうです。

今は忘れた伝説か遠い時代の迷信か

 

 九州熊本の地震で被災された皆様にお見舞い申し上げます。熊本、島原、玉名、阿蘇、ほか全ての地域の早急な復旧をお祈りしております。ボランティアの皆さんの有意義な活動を応援いたします。

 

 どちらかといえば大きな自然災害の少ない北陸で、伝え聞くのは昭和5年の大聖寺地震や昭和9年の手取川洪水そして昭和23年の福井地震の凄まじい様子であり、また、忘れられないのは平成9年のナホトカ号重油流出や平成19年の能登半島地震では多くのボランティアの方からの支援です。昭和5年と想われる地震は二度続けて起こり後の地震の方が揺れは大きかったそうで、慌てて外に飛び出した母の話では、いちばん下の弟が居ないことに気がつき急いで中に戻ると、幼くて怖さを知らない弟は揺れる家の中で大はしゃぎしていたということです。このあと大聖寺では昭和9年の大火事で町の多くが焼けたことを父から聞いており、同じ昭和9年には手取川で大洪水が起きて下流域でも多くの家が流されたことを母から聞いています。家が水に浮き屋根で人が手を振りながら流されていったそうです。昭和23年、地震のレベルが当時として最大規模の直下地震とされる福井地震は火災によって多くの人が亡くなり、地震で生じた地割れに挟まった人もいたとの話も伝わっています。地震が東へ移動するという伝説(迷信)により、小松あたりでも余震による家屋の倒壊と地割れの発生を警戒して、夏場ということもあってか、屋外に梯子を渡してその上に寝ていたという話を聞いたことがあります。大聖寺地震も福井地震も震度レベルは当時として最大階級とされる震度6と記録されており、福井地震をきっかけに震度7が追加して設けられたそうで、能登半島地震も震度6ですが震度階級はもう一つ上に「7」のある「6」となります。能登の震災の象徴とも思える門前の総持寺など、もとから人の少ない地域での復興には長い年月を要しています。ナホトカの頃にはボランティアで勤務先に休暇を申請しようとしても一部の偏向した「活動家」のように睨まれていたのが、能登半島地震のころになると中小企業にとっても従業員のボランティア活動はステイタスともいえるポジションを得たようです。限りある時間の中で出来ることは多くありませんが、自分達が子供の頃から親しんでいた海岸を多くの人達に守ってもらったことを忘れることはありませんし、私にも何か必ずお返しする機会があるものと考えています。

初めてのJR乗換高速バス路線

 北陸新幹線の開業から一年が経ち、終着の金沢駅から白山市の車輌基地までを移送される車輌は目に馴染んできましたが、乗車する機会がないままに二年目になりました。先日、富山市で研修会が開催されたのでためしに新幹線を使ってみようかと考えながら日程を見ると、研修会場は駅前ではなく駅から少し離れた官庁街の先になっていました。小松にある私の事務所からだと、小松駅からJRで金沢駅まで出てから金沢駅で新幹線か三セク線に乗り換えて、富山駅に着いてからバスか電車で研修会場へ行くことになります。新幹線開業前ならJRで小松駅から富山駅まで行くことができたのが、在来のJR線は金沢どまりになってしまったようです。食事をとる時間も考えながら日程を組んでいると、金沢市内から富山市内をつなぐバスが運行されていることが分り、このバスを使うと研修会場のすぐ側で停まり時間も研修開始の少し前に到着するような時刻表になっていました。バスが高速道路を使うためなのか、三セク線と比べて運行時間に大きな差がなく、金沢駅から研修会場までの移動時間全体で考えるとバスに乗った方が短時間で到着することになります。新幹線を使ってもどこかで昼食の時間は必要なので、金沢駅での乗り換えの時間に食事もできると考えて今回はバスを使うことにしました。しかし、実際に当日になると小松で乗車したJR線が20分ほど遅れて到着したので金沢駅で昼食の時間がなく、急いでコンビニで買ったサンドイッチとカレーパンをバスの車内で流し込むように食べることになりました。しかも、平日の昼間に混むことも無いと思い込んでいたこのバスが随分と沢山の人を乗せていて、想定外に窮屈な昼ご飯になりました。そのうえ、普段はあまり架かってこない携帯電話なのに乗車前から次々と着信が入り、せっかく時間をかけて出席した研修会でしたが場外にいる時間が長くなってしまいました。その穴埋めというわけではありませんが、研修会終了後は、バスを使って交通費が少し浮いた分も合わせて岩瀬の満寿泉の常温で鱒寿司と白海老を頂いて一区切りつけることになりました。